ロシアの言葉・文学・文化を今、あるいはこれから学ぶ皆さんへ
今回のロシア軍によるウクライナ侵攻で、ロシア語やロシア文学・文化を学ぶ、あるいはこれから学ぼうとしている皆さんは心を痛めているのではないかと思います。
「なぜ、自分はこんなことをする国の言語や文化を学ぶのか」と悩み、その選択を後悔しているひともいるかもしれません。
ロシアの言葉・文学・文化は、もちろん、「ロシア」という場と強く結びついています。ウクライナに侵攻したロシア政府はおそらく今後も、ロシア語やロシア文学・文化を、「ロシア国家」の大きな要素として利用しようとするでしょう。実際、国家というものが古来、言語や文化をプロパガンダに利用し、自分たちの道具としようとしてきたことは、歴史が示しています。
しかし、ロシア語やロシア文学・文化を学ぶことは、現在、多くの国々から当然の非難を受けているロシア政府の軍事侵攻を肯定することを意味してはいません。むしろ、ロシア語で書かれた文学や思想の多くは、昔から、権力と権力が生み出す不条理に抗し、これを批判してきました。存続のために多くの資金を要する演劇やバレエ、
映画や音楽などは、体制の支援を受けながらも、国家や権力の枠組に収まらない人間の喜びや笑い、悲しみや怒り、そして美を表現してきました。
ロシアの言葉・文学・文化は、国家や体制の枠を越え、より広く、深く、多様です。
近代日本をはじめ世界の文学に大きな影響を与えてきたツルゲーネフやドストエフスキー、トルストイやチェーホフは、ロシア国家のものでしょうか。
ロシア軍の侵攻を受け、傷ついているウクライナに住むロシア人、ロシア語を母語とするウクライナ人は、侵攻してくるロシア軍のことに責任があるでしょうか。
今回の侵攻に対してロシア国内外で挙がっているロシア語での反対の声を、ロシアの政府と同一視することができるでしょうか。
答は否です。
ロシアに限らず、あらゆる言語や文学や文化は本来、国家から自律した営みです。権力に簒奪されるとき、文化や思想は力を失います。だから私たちは、国家や体制よりも広く大きな、文学や学問の場に拠って立つのです。
さきほど、「ロシアの言葉・文学・文化は、ロシアの国家や体制を越え、より広く、深く、多様です」と書きました。
しかし同時に、それらはとても脆い。現在、ロシア国内で進行しているのは、剥き出しの暴力、言論統制、弾圧であり、文化人、学者、市民の自由な活動が制限されています。まさに今、本来語られるはずだった多くの言葉が奪われ、失われつつあります。そして、ロシアという国は国際社会で孤立を深めています。
そのような二重の疎外に瀕しているロシア語の話し手たち、ロシア文学・文化の担い手たちを、さらなる孤独へと追いやってはなりません。コミュニケーションの回路を保ち、彼らと対話していかなければなりません。「国家」によって急速に分断されつつあるように見える現在の世界で、その枠組を超え、互いにつながっていこうとするのは、私たち自身にとっても大切なことです。
今日の状況でロシアの言葉・文学・文化を学ぶことの意味を、私たちはこのように考えています。
2022.3.15 日本ロシア文学会