三谷前会長の早過ぎるご逝去を悼んで(服部文昭)
服部文昭
日本ロシア文学会の前会長、三谷惠子さんが亡くなられました。ご闘病中とはご本人から伺ってはいましたが、その余りに早過ぎるご逝去に多くの方々が言葉を失ったものと思います。追悼文を書くには、金田一真澄さんを始め、ふさわしい皆さんが他にいらっしゃるのですが、中村会長からの「三谷さんのご冥福をお祈りするためにも」との勧めもあり、敢えてお引き受けいたした次第です。
最近の三谷さんのご活躍ぶりに関しては、皆さんよくご存じなので、大昔の話から始めます。
杓子定規な言い方をすれば、三谷さんの指導教官は栗原成郎先生、私の指導教官は佐藤純一先生でしたが、佐藤、栗原両先生は、栗原先生が駒場在職中にはお二人相部屋の研究室であったように、言わば「つうかあの仲」でしたので、三谷さんと私は両先生の授業に分け隔てなく出席して、文字通り「机を並べて」勉強するという今の若い皆さんからすれば夢のような得難い経験を、私はさせていただきました。
三谷さんは、卒業論文で現代ロシア語における不定形構文を(主旨は「現代ロシア語における不定形構文の構造と叙想表現について」として『Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報』巻2、1982年で読むことが出来ます)、修士論文で中世ロシアの重要文献であるДОМОСТРОЙを(主旨は「ДОМОСТРОЙの言語–コンシン所蔵写本による言語的特徴の研究より」として『ロシア語ロシア文学研究』 (16)、1984年で読むことが出来ます)、それぞれ論じられました。このДОМОСТРОЙ論を三谷さんはロシア文学会で口頭発表されましたが、その発表(内容にもプレゼンにも)に深く感銘を受けた或る大御所の先生が、学会誌への掲載に際し、先生が個人的にお持ちの中世ロシア語の活字の提供を申し出られたというエピソードを聞いた記憶があります(今と全く違って、当時は中世ロシア語を印刷することには大きな技術的困難があったのです)。 余談になりますが、その後、私も大学教員となり、多くの学生・院生諸君の卒論・修論の審査にも携わりましたが、どうしても三谷さんの卒業論文、修士論文が常に基準として頭から離れず、結果として多くの学生・院生諸君に辛口の評をするはめになり、彼らにはとんだとばっちりだったかもと、遅まきながら反省しています。それほど三谷論文の水準が高かったのです。 1986年10月から旧ユーゴスラビア(現クロアチア)のザグレブ大学哲学部に留学(~1988年9月まで)、猛勉強されて、アスペクト論で博士号を取得されました。寮で勉強中に幻を見るくらいに没頭したと伺いました。またこの論文は、今もザグレブ大のコースでの読書リストに掲載されているとも三谷さんから伺ったことがあります。東大露文に戻られて、1990年4月、露文研究室の助手として奉職されました。1992年、「ロシア語における名詞句の構造と機能の研究―発話のなかの名詞句の"不定・定・照応"」という論文で課程博士となります。つまり、まったく別個のテーマの博士論文を二つ書かれ、それぞれに博士の学位を取得されたのです。三谷さんならではの離れ業でしょう。
その後、1993年6月、筑波大学文芸言語学系講師となります。この頃は、お勤め先のこともあったのか、理論研究的、対照言語学的、また類型論的なお仕事も増えましたが、文献学的な研究も常に心掛けられました。加えて、その言葉を話す人々へのアプローチ、社会的、フィールドワーク的なお仕事も好んで手掛けられました。今でこそ、ソルブ語も日本の学界でも知られていますが、実証的な研究の日本での先駆者でした。さらにルシンとかスラヴの「小さな言語」の実証的な研究の日本での先駆者であったことも確かです。そして、どんな研究にせよ、形にして世に出し、社会に貢献するところまで仕上げるのが三谷流でした。当時、人気があった大修館の『月刊 言語』に海外のスラヴ諸語研究の動静を的確に紹介された記事を不定期に連載していたことなどもその一例です。
1999年4月から2013年3月までは、京都大学人間・環境学研究科に在職されました。これまで通りご自身の研究を進展させると同時に、多くの院生・学部生の諸君を指導され、その見事なお仕事振りに私も含め同僚皆が感嘆するばかりでした。
そして古巣の東大文学部に戻られましたが、この辺りからは、皆さんのご承知の通りです。
スレズネフスキーを記念したシンポジウム、木村彰一先生を記念したシンポジウム、いずれも三谷さんの企画力、組織力、実行力を遺憾なく示したものでしょう。また、「スラ研」の愛称で知られる北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターから競争的資金を得てのプロジェクトもロシアやブルガリア、クロアチアなど海外の権威も交えたシンポジウム開催などで、ご記憶に新しいと思います。こうしたことの集大成が日本ロシア文学会会長就任でしょう。 以上に述べましたような三谷さんのお仕事振りはどこから来ているのでしょうか?冒頭の頃の話に戻りますが、三谷さんは若くしてお母様を亡くされ、その同じ病を三谷さんも得ていて、とても強い薬を用いた治療を受けねばなりませんでした。三谷さんから「薬の副作用などで頭が利かなくなる前に、やりたい研究をとことん追究したい」と伺いました。『徒然草』の中の≪賀茂の競べ馬を…≫でしたかの「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん…」と通じるような人生観、我々には及びもつかない覚悟といったものが三谷さんの原動力だったのではと推測しています。 こう書いてきますと、三谷さん、研究と仕事だけの人生だったと誤解されかねません。お書きになった物だけでなく、三谷さんと直に話をされたような皆さんは、けっしてそんなことは無かったとご存じでしょう。三谷さんの温かく、心の広い人柄に気づくはずです。そして三谷さんが豊穣な人生を過ごされたことも確かです。
日々の小さなことですが、歌がお上手でカラオケもお好きでした。お酒が強かったことも確かですが、チョコレートを始め甘い物が好物で、横浜元町の喜久屋のビスキュイや京都の阿闍梨餅、また北海道のあれこれのお菓子もお好きでした。若い頃にはオートバイを駆り、スキューバダイビングに親しまれたような一面もお持ちでした。この文章を書く内に、ふと思い出したことがあります。三谷さんが、「子供の頃、『シャーロック・ホームズの冒険』を好んで読むか『赤毛のアン』を好んで読むかで、その後の人生が決まる」というようなことをおっしゃった。三谷さんは、もちろん(?)『シャーロック・ホームズの冒険』派でした。また、三谷さんの書く文章はどれもお上手で味が有るというようなことを申し上げたら、「ええ、馬込の文士村の育ちですからね」とおっしゃたことも思い出しました。
最後に海外からの追悼も少しだけ引かせていただきます。
ロシアの著名な研究者Александр Молдованさんから
Mы глубоко скорбим об уходе из жизни нашего дорогого друга Кэйко Митани. Она была замечательным ученым, тонким знатоком славянских языков и славянской письменности, активным организатором японской и мировой славистики.
Мы сохраним Кэйко Митани в нашей памяти как доброго и внимательного человека, заботливого к коллегам и ученикам.
Выражаю сердечное соболезнование Вам и всем коллегам Кэйко Митани.
ブルガリアの権威Anissava Miltenovaさんから
Very sad news. I am very sorry, for me and for my colleagues in mediaeval studies it is really an unforgivable loss.
We would like to note her contribution to palaeoslavic studies and her valuable discoveries and interpretations.
I would like to write in memoriam note in our journal Scripta & e-Scripta (22, 2022). Also to devote to Keiko Mitani our session at the Society of Biblical Literature conference.
三谷さんの個別のお仕事は、CiNiiやAmazonをご覧になれば、すぐに分かりますので、特に言及しませんでした。月並みな感想ですが、三谷さんは千手観音のような存在なので、私が知り得るのは、せいぜい、その二面と四本の腕くらいです。三谷さんを知る皆さんの心の中にある三谷さん像を大切にして忘れないでいることが、その早過ぎるご逝去へのせめてもの追悼かと思う次第です。