追悼 柳富子先生

籾内裕子

 柳富子先生が2024年11月7日に92歳で亡くなられた。その10日ほど前にお見舞いに伺ったときは顔色もよく呼吸もおだやかで、数年前から染めることをやめた髪は真っ白に美しく輝いていた。こんなにも急にお亡くなりになるとは思っていなかったが、長く苦しまれることがなかったのは幸いだった。

 柳先生のお仕事は多岐にわたるが、なかでもチェーホフ研究とトルストイ研究が二本の柱であった。1963年に早稲田大学大学院博士課程を修了なさった頃から1970年代までは圧倒的にチェーホフ関連の論考が多い。主として比較文学的アプローチによるものであるが、「日本におけるチェーホフ ―正宗白鳥の場合」(『比較文学年誌』第4号、1967年)、「『斜陽』について ―太宰治のチェーホフ受容を中心に」(『比較文学年誌』第5号、1969年)のように日本の作家との比較に基づいて論じられたものと、比較の対象を外国文学にまで広げた「チェーホフとモーパッサン ―類似をめぐって」(『比較文学年誌』第1号、1965年)などがある。当時の先生はまだ若手であっただろうが、すでに広い視野をもっていらっしゃったことにいまさらながら驚く。

 1966年にはすでにトルストイ関連論考「芥川におけるトルストイ ―その精神的触れ合い」(『比較文学年誌』第3号)が発表されているが、柳先生のトルストイ研究への没入が顕著になるのは1980年頃からである。比較の対象として取り上げられた作家は森鴎外、相馬御風、有島武郎、芥川龍之介、中里介山らである。また明治期と大正期の日本におけるトルストイ受容の全体像を見渡すことにも取り組まれた(「明治期のトルストイ受容」(『文学』1979年3月、4月、10月)、「大正期のトルストイ受容 ―ドストエフスキイとの併称をめぐって」(『文学』1981年4月)など)。私が柳ゼミに所属したのは1992年からだが、その頃先生は中里介山に取り組んでいらっしゃった。折にふれてご自身の発見を語ってくださったのも楽しい思い出だ。やがて15本を超える論文をまとめて『トルストイと日本』(早稲田大学出版部、1998年)が刊行された。先生の主著である。

 比較文学研究に携わる者として、先生から学んだことは数えきれない。中でも「どこで」「なにを」「どのように」調べるかという資料調査の方法を教えていただいたことが、いまでも私の研究を支えている。手間を惜しまずに資料を掘り起こし、実証に基づいた分析をする、それが柳先生のゆるがない研究方針であった。そして先生は論理的な展開の最後に、ロシア人作家と日本人作家との精神的交流から覚えたご自身の感興を詩的な言葉で語る方でもあった。

 この追悼文を執筆するにあたり、院生時代にコピーをとった先生の論文を読み直した。古びたコピーのところどころに幼かった息子たちがいたずら書きをした跡があった(うっかり本や筆記用具を出しっぱなしにしておくと、息子たちの遊び道具になってしまったのだ)。それを見て、胸がしめつけられた。あの頃、育児と並行して院に通う私を先生はいつも励まして下さった。預け先に困ったらゼミに子供を連れてきてよいとおっしゃってくださり、お言葉に甘えたこともあった。研究指導は厳しく震えあがるほど恐ろしかったが、温かい師であった。先生がお元気でいらっしゃるうちに、もっと感謝を伝えておけばよかった。

 とても遅くなってしまいましたが、柳先生、ありがとうございました。