2024年度日本ロシア文学会賞「受賞のことば」

安野 直(やすの すなお)

【著書部門】

『ロシア文学とセクシュアリティ 二十世紀初頭の女性向け大衆小説を読む』(群像社、2022年10月)
 

〈プロフィール(2024年10月現在)〉

早稲田大学文学部卒業。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学文学学術院助手、助教、講師(任期付)を経て、現在、八洲学園大学専任講師。専門は、ロシア文学およびジェンダー研究。
 

〈受賞のことば〉

 この度は、拙著『ロシア文学とセクシュアリティ――二十世紀初頭の女性向け大衆小説を読む』に、栄誉ある賞を賜り感謝申し上げます。学会賞選考委員会委員の先生方には、審査の労をとっていただき感謝申し上げます。また、本書のもとになった博士論文の執筆にあたって、主査の八木君人先生をはじめ、副査の伊東一郎先生、貝澤哉先生、松永典子先生には大変お世話になりました。また、これまで暖かいお声をかけていただきました早稲田大学文学部ロシア語ロシア文学コースや日本ロシア文学会の先生方にも、この場を借りてお礼を申し上げます。

 拙著では、20世紀初頭に書かれ、おもに女性読者に人気を博した女性向け大衆小説を、ジェンダーやセクシャリティ研究の視座から検討しました。私は、そうした大衆小説に描かれる性のありようをフェミニズムやLGBTQ、クィア研究といった現代的課題に接続できうるのではないか、との問題意識のもと研究を進めてきました。セクシュアリティをめぐる議論が活況を呈した19世紀末から20世紀初頭において、研究史のなかでも象徴主義の陰に隠れがちなこれらの作品が、――スキャンダラスな側面をもちつつも――大衆の支持を得たという事実は、もっと評価されてもよいのではないでしょうか。

 本研究の出発点は、久野康彦先生の博士学位論文「革命前のロシアの大衆小説:探偵小説、オカルト小説、女性小説」(東京大学大学院人文社会系研究科、2003年)にあります。不勉強な大学院生だった頃に、「このような豊穣なロシア文学の世界があるのだな」と感銘を受けたことをいまでも覚えています。本書で扱ったマスカルチャーとそれをめぐる言説が、文学のみならず、多様なメディアによってどのように伝播していったのかについては、十分に論じることができませんでしたが、この受賞を機にさらに研究をすすめていこうと思います。
 
 

堤 縁華(つつみ よりか)

【論文部門】

「故郷が故国になる/ならないとき:アゼルバイジャンの元人民作家アクラム・アイリスリの位置づけ」(『ロシア語ロシア文学研究』第55号)
 

〈プロフィール(2024年10月現在)〉

国立台湾大学外国語・外国文学科卒業、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、2022年より同博士課程在籍。専門は現代アゼルバイジャン文学。
 

〈受賞のことば〉

 この度は拙論に名誉ある賞を賜り、誠にありがとうございます。学会誌の刊行と学会賞の選考に関わられた先生方に深く御礼申し上げます。拙稿にご助言頂いた乗松亨平先生、浜田華練先生、指導教官の黛秋津先生、およびこれまでご指導頂いた皆様に深く感謝申し上げます。

 アイリスリの作家論としても、アゼルバイジャン文学論の一事例としても、拙論で論じきれていない事象は無数にあり、拙く切り取られたこの文学史上のひとかけらが、一体どのような意味を持ちうるのか、賞を頂いた今でもなお不安に思っております。一方、アイリスリの創作と、彼を取り巻く事象が、それだけで一つの歴史であることには間違いありません。もしも拙論に、評価に値する部分が少しでもあったのだとすれば、それはひとえに、ユニバーサルとローカルの間を絶えず往還する、アイリスリという作家の深みによるものでしょう。

 バクーの中心部にあるアイリスリ先生のアパートでの、あまりにも得難い無数の思い出への、全く分不相応なお返しとして、この賞をアイリスリ先生とそのご家族に捧げたいと思います。
 
 

高橋 沙奈美(たかはし さなみ)

【選考委員特別賞】

『迷えるウクライナ 宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』(扶桑社、2023年5月)
 

〈プロフィール(2024年10月現在)〉

2011年、北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(学術)。北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター助教を経て、2019年より九州大学大学院人間環境学研究院講師。専門は20世紀以降のロシア、ウクライナの正教会。
 

〈受賞のことば〉

 この度は選考委員特別賞という大変栄えある賞を賜り、望外の喜びです。本書の出版に力を貸してくださったすべての方に心からお礼申し上げたいと思います。

 拙著はロシアによるウクライナ侵攻に至るまでのロシアとウクライナの正教会の歴史を概観し、軍事衝突によって変容していく両教会の現状を描いたものです。この本を書いた時、「私が生きている間にロシアとウクライナの人々が共に祈ることはないかもしれない」と考えていました。しかし現実には、ロシアとウクライナの人々が共に祈る日常がありました。しかし、それは彼らが分断を乗り越えていることを意味しません。不条理な暴力によって刻まれる溝は、こんにち、さらに深く複雑になっているように見えます。政治制度だけではなく現在の正教会もまた、排外主義や、時代錯誤の価値観、権威主義、国家主義など多くの問題を抱えています。しかしそれでも何かを信じることは、絶望的な日常の中で、人々をつなぎ、希望を与える力になります。拙く遅々として進まない筆ではありますが、今回の受賞を励みに、そしていただいたご批評に真摯に向き合いつつ、これからも正教会の歴史と今を描き出す努力を続けてまいりたいと思います。