● 国際ドストエフスキー学会と「ドストエーフスキイの会」の交流

日本の「ドストエーフスキイの会」は1969年に発足後,市民の会として着実な活動を続けています。今回はこの会と国際ドストエフスキー学会(IDS)との交流を中心に,「ドストエーフスキイの会」で常に中心的役割を担ってこられている木下豊房先生にお書きいただきました。

「ドストエーフスキイの会」の国際的活動

木下豊房

 1971年以来,3年毎に開催されている国際ドストエフスキー学会(IDS)の第12回国際シンポジュウムが,今年,04年9月1日〜6日,スイスのジュネーブ大学で開かれます。目下,報告者としてノミネートされているのは,173名にのぼり,そのうち,9名が日本の研究者です。安藤厚,望月哲男氏などのほか,4名が大学院生の若手研究者です。
 IDSと日本のドストエフスキー研究者との付き合いは,1975年にさかのぼります。確か,井桁貞義氏が北米のジョージ・ワシントン大学に事務局を置くIDSの存在を知ったのが74年で,早速こちらから連絡をとって,手紙や機関(誌)などの交換が始まりました。国際会議はすでに71年(ドイツ,エムス),74年(オーストリア,ウォルフガング)で開かれており,77年8月にコペンハーゲンで予定される第3回シンポジュームには日本からも是非,参加して欲しいとの要請が会長から届きました。
 その間すでに日本の会の活動,研究文献などの資料も先方に送り,IDSの「ビュレテン」にも紹介されて,関係者から大いに関心を寄せられていました。会議への参加要請に応える形で,77年の第4回シンポジュウムに日本からはじめて,井桁貞義氏が単独で参加し,大いに歓迎されました。その時の様子は,1978年1月発行の「会報」49(会報復刻版『場』188-191頁)に,写真とともに詳しく紹介されています。
 これをきっかけに,80年の第4回(イタリア,ベルガモ)に井桁氏,清水孝純氏と私が出席し,以後,第5回(フランス,ノルマンジー),第6回(イギリス,ノッチンガム),第7回(スロヴェニア,リュブリアナ),第8回(ノルウェー,オスロ)と,日本からも一人か二人,誰かが参加して,アジア唯一の常連参加国となりました。95年の第9回(オーストリア・ガミング)には北大の安藤氏など7名が参加,98年の第10回(ニューヨーク)には11名,2001年の(ドイツ,バーデン・バーデン)には7名と,このところ大学の研究活動の国際化を反映して,参加者が増えてきています。院生クラスの若手研究者の参加も注目されます。これには,IDSのいわば番外プログラムとして日本で開催し,IDSの主だった研究者が来日した国際研究集会(2000年8月,千葉大)が若手研究者に良い刺激と自信をあたえたことも手伝っているでしょう。
 日本の「ドストエーフスキイの会」は国内向きには愛読者の市民の会という側面を強くもっています。むしろ研究者は埋没している印象ありますが,会に潜在するエネルギーは他に類のないものがあります。会則に縛られることなく,元来,ネットワーク的な性格をもってスタートしたことが,現代にマッチしているようです。IDSという組織も実は似たような,融通無碍な研究者の組織なのです。
 「ドストエーフスキイの会」HP:http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/

● トルストイ生誕175年記念講演会の報告

ロシア連邦では毎年トルストイの誕生日で命日でもある9月5日前後に「国際トルストイ連続講演会」が行われています。生誕175年にあたる2003年には8月28日から9月5日までヤースナヤ・ポリャーナ,トゥーラ,モスクワの3箇所で開かれました。 参加者のお一人である糸川紘一先生が「日本トルストイ協会」NEWS LETTER 2003年11月臨時号に書かれた報告を糸川先生のご同意を得て掲載いたします。

ヤースナヤ・ポリャーナ会場のトルストイ学会

糸川紘一

 3会場の全日程(9日間)に参加した私は3つを比較して長所,短所などをざっと思い描ける。第1部のヤースナヤ・ポリャーナと第3部のモスクワは全体会議方式だったのに対して,第2部のトゥーラは分科会方式だった。結論を言えば,全体会議の方が実り多かったと思われる。殆ど移動ができなかった分科会(私はそこに配属された)は,配属で個人の成果が決まったと言える。
 ヤースナヤ・ポリャーナ会場(8月28〜30日)は,モスクワ会場と同じく,統一テーマを持たず,要するに寄せ集めだった。だが「ヴォルコンスキーの家」の会議場がこじんまりしているせいか,一種「家族的」な雰囲気があって,それが大きなプラス要因になっていた感がある。私はトゥーラから通ったが,大多数は旧領地にある宿舎で起居を共にしていたので,「家族の絆」も生まれていて「合宿学会」の感があった。  この会場は欧米人が多く,東洋人は韓国人が3人(他に,「地元」のキム・レーホ氏),日本人が3人(見学者を含む)で,ロシア人は「当屋敷」の研究員など数人とパリ在住の一人だった。また市民の見学者も数人いた。
 報告者の構成にもよるが,ここでは「トルストイと東洋」のテーマが「トルストイと西洋」のテーマと互角の比重を占めるかと思える時があった。その印象を強める上で大きく寄与したのはキム・レーホ氏で,最終日に氏は2000年に自ら編纂した論集『トルストイと東洋』をかざして説得力あるコメントをし,モスクワ会場では同じ趣旨の報告をされた。
 私自身の報告は「トルストイ主義と日本の『新しき村』運動」で,この理想と実践の限界にも触れたので,作家の「本拠地」では場違いだったろうか。
 都合でトゥーラに早く着いた私は藤沼大先生と間違えられて,ラジオの取材を受けたが,「トルストイの引力に引き寄せられて来た」という趣旨の回答しか出来なかった。トゥーラからポリャーナにせっせと通った初秋の朝晩が今では懐かしい。ましてそれは在りし日のトルストイの道だったから。

● 日本のスラヴ研究の歴史と国際スラヴィスト会議

日本のスラヴ語学文学研究の歴史,世界の舞台へのデビューのことなどについて日本スラヴィスト協会の代表,佐藤純一先生に書いていただきました。

世界のスラヴ研究と日本

佐藤純一

 ロシア語ロシア文学の研究は,スラヴ民族の言語・文学・文化の研究を対象とするスラヴ研究(Slavic studies)の一部門です。欧米では19世紀後半以後,比較言語学の確立発展とともに,それ以前の個々の言語や文化の記録や文献をこのスラヴ研究という枠組みの中に吸収し,その深化拡大をはかる方向で研究が組織されてきました。
 日本では,鎖国下の18世紀後半以降強まった隣国ロシアの脅威を契機としてロシアへの関心が高まり,すでに文化10年(1813)には若い蘭学者馬場佐十郎が優れた翻訳でロシア語文法を著わしています。以来,日本のロシア研究は200年近い歴史を経てきましたが,この分野の学者でスラヴ研究者として自覚を持ったのは八杉貞利(1877-1966)が最初で,しかも,ロシア以外のスラヴ言語・文化の研究者は昭和以降に漸く現れるようになったに過ぎません。
 ロシア語学文学研究を含む日本のスラヴ研究が大きく発展を始めたのは第二次世界大戦後のことで,まず,1950年には日本ロシア文学会が創立され,全国で当時は100人前後だった語学文学の専門家が参加して,研究発表会や学会誌を通じての情報交換や討論が恒常的に行われる条件が整ったのがその第一歩です。そして戦前は旧制の高等専門学校や軍の教育施設での実用的なロシア語教育を担当させられていた専門家の多くが,戦後の新制大学で教職に就き,若い研究者の養成にあたる機会が格段に増えたこと,そうした若い研究者が外国で出て,国際的な研究の場に身を置くことが出来るようになった事情も幸いしました。
 ただ,国交回復と文化協定締結が遅れたソ連への留学は80年代後半までは制限された形でしか実現しなかったのですが,50年代には当時発展の勢いにあったアメリカのロシア研究・スラヴ研究との接触が日本の研究者に大きな刺激を与える一方で,相対的な自立を回復したヨーロッパのスラヴ諸国との学術文化の交流が始まり,50年代の末からはこれらの国々へも日本の研究者が留学して,個々のスラヴの言語や文化を直接学ぶ機会を持つようになりました。
 こうして日本のロシア語学文学研究者の間にも国際的なレベルでの研究の交流を目指し,外国の研究団体との接触を図る動きが強くなってきました。そのような時期に,国際スラヴィスト委員会の主催する国際スラヴィスト会議が78年9月にクロアチアの首都ザグレブで開催されるというニュースがもたらされ,それに参加するためにロシア文学会の有志十数人が,当時の会長の木村彰一早大教授(東大名誉教授)を代表者とする日本スラヴィスト協会を設立して国際委員会への加盟を申請しました。幸いにして木村教授を含む6人がその会議へオブザーバーとしての参加を果たし,そこで開かれた委員会総会で日本の正式加盟が承認されました。
 国際スラヴィスト委員会というのは,チェコとロシアの言語学者たちの主唱によって,世界のスラヴ研究の集約と発展のために各国のスラヴ研究者の団体の代表者の協議体として設立され,1929年に第一回の国際スラヴィストがプラハで開催されました。当時のチェコスロヴァキア,ポーランド,ユーゴスラヴィア,ソ連,ブルガリアのスラヴ5か国が交代で5年ごとの会議を主催する形で第二次世界大戦中を除き,これまで十三回の会議が行われてきました。
 上記のザグレブの会議はその8回目で,その5年後の83年9月にウクライナのキエフで開催された第九回の会議には,日本からは井桁貞義,小原雅敏,佐藤昭裕,佐藤純一,佐藤靖彦,中村喜和,福岡星児,森安達也,米重文樹の9人の研究者が研究発表を行ったほか,全部で20数人の代表団となり,現地で大きな話題を呼びました。こうして日本のロシア・スラヴ研究は初めて国際舞台へのデビューを果たしたのです。
 その後は88年の第10回(ソフィア),93年の第11回(ブラチスラヴァ),98年の第12回(クラクフ),そして03年の第13回(リュブリャナ)の各会議の度に日本の研究者たちの優れた発表が行われ,日本のスラヴ研究は確実に世界のスラヴ研究の一翼を担うまでに成長したと言えるでしょう。なお,木村彰一教授が86年に急逝された後の日本スラヴィスト協会の代表者はこの欄の筆者が務めています。

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