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学会誌『ロシア語ロシア文学研究』
第48号:学会誌48号
 

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モスクワでの子供時代(1968年ー1972年)

吉岡 ゆき
私がロシア語と出会ったのは9歳のとき。新聞記者だった父の赴任先のモスクワで,ソ連の学校に入ったからだ。あしかけ4年間モスクワに住み,13歳の誕生日に日本に戻った。それからはずっと日本に住み,大学のロシア語学科を卒業して3年間小さな商社に勤めた。ゴルバチョフがソ連共産党の書記長に就任した1985年の春にフリーランスのロシア語通訳になり,今に至っている。

ロシア語の習得は自分の意志で始めたことではなかった。でも1968年から1972年のモスクワでロシア語を身につけていなければ,どんな人生になっていたのか,想像がつかない。

* * *

私が生まれたのは,今はさいたま市の一部になっている,埼玉県与野市。平屋建てが並ぶ中に聳え立つ5階建て公団住宅の5階の我が家の窓から,国鉄の線路を蒸気機関車がもくもくと煙をあげながら走っていたのを見た記憶がある。

私が小学校2年生だった1967年の暮れ,父が毎日新聞のインド支局勤務になり,母と私もニューデリーで暮らすことになった。飛行機に乗るのは私だけではなく,母も生まれて初めてだった。母が通っていた美容室での会話を憶えている。アメリカ軍による北爆が始まってすでに2年経っていた当時,テレビのニュースでは,ベトナム戦争の映像が頻繁に流れていた。だからだろう,母と私がインドに行くという話題は,美容室の客と従業員たちの間でこういう展開になった――「日本からインドに行くなら,飛行機はベトナムの上を飛ぶのよね?」――「アメリカの飛行機と間違って墜とされたらどうするの?」。「そうだ!」と若い美容師が言った,「飛行機から日の丸を下げて飛んだらどう? 日本の飛行機だってわかるでしょ!」

この妙案にも私の懸念は払拭されず,「インドはお釈迦様の生まれなすった国だからね」と父方の祖母に背中を押すようにして,送り出された。

* * *

ニューデリーまでは香港とバンコク,2回の乗り継ぎがあった。タラップを降りるときのまぶしさ,待合室の真ん中のテーブルにどんと置かれた大皿に山盛りになっていたトロピカルフルーツの数々。そして機内で,隣に座って相手をしてくれた「きれいなお姉さん」=スチュワーデス。それまでとはまるで違う日々の始まりだった。

ニューデリーでは日本人学校に通った。小学校2年生は8人,全校でも生徒は30人くらいだった。住んでいたのは芝生の庭付きの2階建ての家。私たち家族は1階に住み,2階はアエロフロートの駐在員一家。私と同年代の男の子と女の子のいるこの家族とは,結局一度も口を利かないままだった。玄関で靴を脱がなくていい石の床,洋式のトイレ,洋式のバスタブ,ベッドで寝ること,スクールバスで学校に通うこと,ホテルのプールでの水泳の授業。住み込みの運転手,通いの料理人と掃除夫。庭の木にはカメレオンが出没し,バスルームにはマングースが住み着いている。家の前の高台のヒンズー教寺院では猿が大喧嘩をする。日差しと乾いた空気は,のちにウズベキスタン,トルクメニスタンといった中央アジアの国々を訪れて既視感をおぼえる元になった。

* * *

インドでの生活は1年もたたずに終わった。「ニュースが少なすぎる」という理由でニューデリー支局が閉鎖され,父はモスクワ支局に転勤になった。1968年8月,小学校3年生の私は日本に一時帰国した。「モスクワにも日本人学校はあるけれど,あなたはむこうの学校に通うのよ」――こう言い渡されて,ただでさえ不安を覚えていた私は,あるとき母が,同居していた叔母(母の妹)を相手に,真剣な面持ちで話し込んでいたのを憶えている。私が居合わせているのも目に入らない風の,ただならぬ気配に「何の話しをしているの?」と聞くこともできなかった。何年も経ってから合点がいった,あれはワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキアへの軍事介入が起きたときだったのだ。

父は社会部出身の記者で,ソ連が専門ではなかった。父は英語で取材をし,ロシア語の取材は,父よりもかなり若い,ロシア語学科出身の記者が担当した。平日の日中は英語が出来るロシア人の男性秘書がいた。支局を兼ねた我が家はクツーゾフ大通り 7/4番地,12階建ての外国人専用住宅の5階。我が家の真下の4階は,エジプトのアスワンダム建設のオフィスだった。食堂を兼ねた私の部屋は(私は一人っ子だ)クツーゾフ大通りに面していて,斜め向かいはスターリン高層建築の7つの建物のひとつ,ウクライナホテル(尖塔の先端までの高さは203メートル)。ベランダに出て右を見れば,カリーニン橋(現ノーヴイ・アルバート橋)の向こうに「開いた本の形をした」コメコン本部(現モスクワ市政府庁舎別館,高さ105メートル)が望めた。

私を地元の学校に通わせると決めた父の理屈は,ずっとあとになって母から聞かされた。「ソ連は宇宙開発を含めて,いろいろと進んでいる国。ロシア語を学んで損はない。ものにならなかったら,嫁に行けばいい」。アメリカのアポロ11号の月面着陸,「一人の人間にとっては小さな一歩だが,人類にとっては偉大な飛躍」は翌年の7月だったのだが… ともかく,家から歩いて12ー13分の学校に,日本人学校が2フロアを借りていた建物の前をとおって通うことになった。 (1)


(1) 1970年の人口はソ連2億4000万人,米国2億300万人,ソ連のほうが2割近く多かった。日本の人口は1億500万人。そして世界全体では37億人だった。

* * *

モスクワに着いてからの1ヶ月間,私は高熱を発して寝込み,外に出られなかったそうだ。当時のソ連の学校は7歳入学だったので,日本の小学校3年の途中だった私は,1968年の12月,モスクワ第56番学校の2年生(2年A組)に編入学した。(2) 


(2) この学校は曽根真由理(現姓太田)さんの『モスクワの新人類たち――誰も書かなかったソ連の高校生活』(主婦と生活社,1986年)に描かれている。曽根さんが通ったのは1982年から85年,7年生に編入学して10年生を卒業した。第56番学校は今ではホームページを持ち,教師全員のフルネームと顔写真,平均賃金,食堂のメニューに至るまで誰でもアクセスできる。

* * *

モスクワの学校での第1日。四捨五入すると半世紀が経った今でも憶えている光景は:

ソ連の学校の制服――茶色のワンピースに黒いエプロン――を着た私は同級生に囲まれている。彼らは口々に,何かを私に求めるように言っている。私は一言も分からない。教師や私の親の姿は見えない。そのうち「アーニャ」という言葉が聞き取れた。私の父は1960年頃にロシア語の教室に通っていた時期があり,私が幼い頃に大切にしていた人形には「ソーニャ」,「ヴェーラ」といった名前がついていた。なので「アーニャ」が名前だと察しがついた。そうか,この子は「私はアーニャ。あなたの名前は?」と尋ねているのだ。私が「ゆき」と言うと,その場の空気が一瞬にしてなごんだ。

このエピソードに始まり,1972年8月までの足掛け4年のモスクワ暮らしには,「これは嫌だった」という思い出がひとつもない。モスクワで暮らした4年間,私も両親も一度も日本には帰っていない。航空券が高額だったこともあると思うが,あの頃の海外赴任はそういうものだったらしい。日本との手紙のやり取りは,祖母とは当初したかもしれないが,記憶に残っていないし,電話で話した記憶もない。

* * *

学校の授業は最初の半年間は何も分からず,例えば算数の文章題は「意味をまったく成さない文字の群れの中に数字がいくつか浮かんでいる」ありさまだった。ただ,私は日本の小学校3年生の途中までやっていたので,九九を全部暗記していた。モスクワの学校では皆が必死に九九を憶えている最中。一度私は黒板に書かれたいくつもの掛け算を,すらすらと解いてみせた。これがどの程度の自信を私に与えたのかはわからないが,「私は遅れをとっている,劣っている」と感じたことは一度もなかった。

* * *

小学3年生の私が強く感じた,1970年前後の,「日本の学校」と「ソ連の学校」の違いは何か? 

・(小学校なのに)制服がある。

・万年筆を使う――鉛筆を使ったのは、4年生くらいになってグラフを書くときとコンパスを使うときだけだった(コンパスは鉛筆を挟むタイプのものしかなかった)。当然,書いたものは消せない。修正液など存在しなかった。消し去ろうとするなら,剃刀の刃で紙の表面ごと削り取るしかない。だから当時のソ連では,小学生が剃刀の刃を持ち歩いたりしていた。万年筆のインクはカートリッジではなく,インク瓶からスポイト式に吸い上げる。手がインクで汚れる。ランドセルの中で万年筆のキャップが外れて,ランドセルや教科書などにインクがつく。ボールペンが一般に広がったのは1970年ごろと記憶している。インクがなくなると,芯を替えるのではなくて,街の修理屋で芯にインクを注入してもらった。(3) 


(3) 学会大賞受賞講演の数日後に叔父や叔母たちに会う機会があった。そのとき聞いたのだが,日本でも昭和20年代には鉛筆削りなど存在しなかったから,小学生でも鉛筆を削るための小刀を学校に持参した。そもそも筆箱と鉛筆,小刀はセットで売っていたし,「刃物なんて危ない!と騒ぐ大人なんていなかった」そうだ。


・校庭がない――学校はひとつの建物と体育館だけ。体育館はせいぜい2クラスが体育の授業をできるだけの大きさだった。

・始業式,終業式を含めた全校集会も,運動会のように全校でやる行事もいっさいない――だから,7歳から17歳までが通っているのに,学校全体の生徒数=規模が目に見えない。同学年はАとБの2クラスだが,学年が変わってもクラス替えをしないので,隣のクラスの子のことは名前も知らない。 


(4) 教室の絶対数が足りないので,午後から授業が始まる「第2シフト」のクラスがあることは,少し経ってから知った。


・教室の掃除も,廊下の掃除も「掃除のおばさん」がやってくれる。

・全校生徒用のクロークが独立したスペースとして存在する――9月の初めと5月の終わりを除いては,学校には必ずコートかジャンパーを着て行ったので,学校に着いたらまずクロークでコートを脱ぐ,下校時はクロークに行ってコートを着る。

・昼ごはんは学校では食べない――授業が終わって家に帰ってから食べる。そのかわり,休み時間に「おやつ」を食べてよかった! リンゴや人参を家から持ってきて,休み時間の教室やホールでポリポリむしゃむしゃ食べていい! それに小さな食堂がある! 菓子パンや飲み物が買える場所が学校にある! 学校に堂々とお金を持っていかれる! 学校の帰りにアイスクリームを買っても,「買い食い」という恐ろしい言葉で呼ばれることはない! これは元日本の小学生にとっては信じられないような幸せだった。モスクワの子供時代の懐かしい味は――マッシュポテト,ドライフルーツを煮出した飲み物,砂糖を加えて煮出した甘い紅茶,ワトルーシカ(カッテージチーズを真ん中に乗せて焼いた菓子パン)。

* * *

というわけで,授業の内容は何も分からないけれども,楽しく学校に通って半年後に夏休みになった。6月1日から8月31日まで,丸々3ヶ月の休み,宿題は一切無し! 両親は私をピオネール・キャンプに2シフト,つまり合計2ヶ月送り込んだ (5)。モスクワからさほど遠くない,平均的なキャンプ。毎週日曜日は保護者の面会日なのだが,当時は,外国人がモスクワ市外に出るには別途許可が必要だったので,私の親は面会に来なかった。なので2ヶ月近く,ロシア語だけの環境で過ごした。ラッパの合図で整列することから一日が始まり,晴れた日は牛が歩いて渡る浅い川で水浴びをして… カルチャーショックだったのは 朝ごはんと昼寝のあとの「おやつ」に出た甘い米粥。学校の食堂にはなかったので,キャンプで初めて食べた。米を牛乳で甘く煮て,食事として出すというのは,1970年前後の日本人の感覚ではありえないことだった。甘い米粥と,これまた牛乳で甘く煮たひきわり小麦の粥,どちらかが朝ごはんに出た日は,昼ごはんが本当に待ち遠しかった。


(5) クリミアにあるАртекに代表される,全国から選抜された子供が集められる別格扱いのキャンプを除いては,ピオネール・キャンプは親の職場(省庁や労働組合)単位で運営されていた。なので,クラスや近所の仲良しだから一緒のキャンプに行こう!とはいかない。外国人である私は,親が外務省の在留外国人担当部署,通称「ウポデカ」に申し込み,指定されたキャンプに行った。

ところでアポロ11号の月面着陸は1969年7月20日。ソ連のテレビでも,ちゃんと放映されたそうだが,ピオネール・キャンプにいた私はこのニュースをまったく憶えていない。

* * *

夏休みが終わって1969年9月1日,私は3年生になった。

2ヶ月のキャンプ暮らしで,ロシア語がスラスラ口から出てくるようになった,つまり「言いたいことはロシア語で言えるのだ」と自信満々の私は,登校の途中に,一番最初の日にクラスの皆に名乗るきっかけを与えてくれた,あのアーニャに会った。「夏休みはどこに行っていたの?」というつもりで私は尋ねた: "Ты куда пошла?"(どこに行くところなの?)

おさげ髪をリボンで結わえたアーニャは戸惑いを見せたあと答えた: "В школу"(学校).

今度は、自分のロシア語が文脈に沿わない使い方であったことを認識できなかった私が戸惑う番だった。

* * *

学校に通い始めたときから,週に2回ほどロシア語の家庭教師,アーダ・セミョーノヴナに来てもらっていた。毎日,決まった数の単語を覚えることになった。 

前述のとおり、私たちは支局を兼ねた家に住んでいた。日本との時差は6時間だからモスクワの夕方は日本の深夜,当時は特別なニュースでもない限り,父たちが遅くまで仕事をすることはなかったはずだ。私の記憶にあるのは――大人がいない夜の支局に私が一人。窓は中庭に面しているので静かだ。今日の「ノルマ」の単語を憶えなければいけない。父も母も家にはいないようだ。壁の時計がチクタクと音を立てる。「どうして私だけがこんな辛い思いを…?」涙で時計の針――夜の11時――がにじんで見える。でもこれが「モスクワなんていやだ! ロシア語の勉強なんていやだ!」につながることはなかった。

3年生になって,学校のロシア語の授業で文法の勉強が本格的に始まった。ロシア語を話すことに物怖じしなくなっていた私が,ロシア語のルールをクラスのみんなと一緒に覚えることになった。子どもの語学学習の条件として,とても幸運だったと思う。

* * *

ソ連時代は7歳から9歳までの学童はオクチャブリョーノク(十月の子供、つまり十月革命の子供)だった。コムソモール(共産主義青年同盟,14歳で入団)の弟分がピオネール,そのまた弟分がオクチャブリョーノクだった。幼いレーニンの顔が真ん中に刻印された赤い星バッチを制服の左胸につける。クラスの全員がつけていた。私もいつからか,このバッチをつけて登校するようになっていた。でも,ピオネールには「気がついたら,なっていた」とはいかなかった。

ネットには,ピオネールは「団員として相応しいと認められなければ入団出来ない」「9歳から14歳までの少年少女が任意で入団」などと書かれているが,56番学校では,ほとんどの生徒が10歳になっている3年生の4月22日(レーニンの誕生日)が入団式だった。

任意とはいえ,入団を考えていない子など一人もいない。ある「問題児」が先生に「それでピオネールになれると思っているの?」と言われたとき,私までビクッとした。クラスの全員が入団するのが実情になっているとはいえ,共産主義青年同盟の弟分の組織。担任の先生に(おそらく父が),資本主義の国の子の入団は前例がないから難しいと言われた。クラスにはモンゴル,ユーゴスラビア,ポーランドの少年が一人ずついた。彼らはピオネールになるのに,私は資本主義の国出身だからなれない…

幸いモスクワ市の地区レベルで検討した結果(と後日「内実」を説明された),模範的態度,成績も問題ないから,と特例として入団が認められた。本当に嬉しかった。(6)


(6) 学校の制服とは別に,ピオネールの制服があった。男女ともに,フラップつきの胸ポケットと肩章のある白いワイシャツを着る。ボタンはメタル調,左袖にピオネールの紋章(星と炎)が縫い付けてあった。ボトムスの色はグレーがかった青が基本で,男子はスラックス(学校の制服のズボンのままだったかもしれない),女子は膝上丈のスカートでボックスプリーツの場合が多かった。女子もバックルつきのベルトをした。晴れがましい行事用だったのも一因かもしれないが,毎日着ているこげ茶のワンピースに黒いエプロンとは対照的で,ピオネールの制服を着ると溌剌とした気分になった。男女ともに赤いギャリソン帽をかぶった。ピオネールのシンボルである赤いネッカチーフは,行事のあるなしに関わらず毎日学校にしていった。放課後,私服に着替えたあとまで赤いネッカチーフをしている子はまずいなかった。

* * *

1970年9月,4年生に進級。4年生からは教科ごとに先生が変わる。私は11歳。このころになると日本人の顔と名前が覚えられなくなった。我家に顔を出す,日本人駐在員とその奥さんたちは何人もいたが,日本語だけをしゃべる人の顔の特徴がつかめなくなり(「日本人はみな同じ顔をしている」),おまけに,ごく普通の日本の苗字が覚えられなくなった。

私の標準的な一日は:

学校に行く。帰宅して昼食。ソ連の学校では学校単位での部活動はなかった。スポーツ系も文科系も課外活動は「ピオネールの家」「ピオネール宮殿」など,学校以外のところで行うものだった。なので,授業が終わると,掃除の時間もないので,即下校。たいがいは友だちとしゃべりながら行きの倍くらいの時間をかけてゆっくり帰る。4年生までは授業はだいたい1日4時間だが,5年生になると5時間。そうなると家に着くのは2時前。親はとうに昼ごはんを済ませているので,私はロシア人のお手伝いさんと話をしながらお昼を食べる。午後は(ロシア人の)友だちと遊ぶ,電話でしゃべる,学校の宿題をする。夕方はロシア語の本を読む,支局の応接間を兼ねた居間にあるテレビを見る。クラスでの話題は,前の晩のテレビ番組や放映された映画だった。この頃になると,家庭教師のアーダ先生とのレッスンは,面白い本を推薦してもらって,読んだ感想を先生に話す,というものになっていた。当時のソ連では人気のある本は品薄の場合が多かったこともあり,本はたいがい図書館で借りた。地区の図書館にも,トロリーバスに乗って通うようになった。

* * *

このころ読んで,今でも憶えている本の名前をあげてみる。ソ連・ロシアの児童文学に関心のある方にはおなじみの本ばかりだと思う。

ニコライ・ノーソフが書いたネズナイカ・シリーズ

ラーザリ・ランギン著『ホッターブィチ爺さん』

レフ・カッシリ著『操行簿とシワンブラーニヤ国』

グリゴーリー・ベールイフ、レオニード・パンチェレーエフ共著『ShKID共和国』

ルヴィム・フラエルマン著『野生の犬ディンゴ 初恋物語』

学校の文学の授業で習った作品もひとつあげたい,『地下洞窟の子供たち』だ。コロレンコの初期の作品『悪い仲間』を,作家本人の許可なく帝政時代の児童雑誌編集部が「児童用に」短縮して書き直したものだ。『悪い仲間』はキーラ・ムラートワ監督の1983年の映画『灰色の石に囲まれて』の原作である。

ゴーゴリのウクライナが舞台の作品は4年生の文学の授業の課外図書だった。その中でも 『五月の夜』は,第2章冒頭の「君よ知るやウクライナの夜」ではじまる段落はいうまでもなく,ウクライナの匂い立つ詩的なイメージの源泉であると断言できる。

『言葉についてひとこと』をはじめとするレフ・ウスペンスキーの著作。

ゴーゴリの『検察官』は5年生になって自分で読んだ(授業ではまだ扱わない)。自分ひとりで,友だちと一緒に,声に出して読む。でも数行でげらげら笑ってストップしてしまう。何回,何十回と読んでも可笑しいのだ,「箸が転げても可笑しい」年頃にさしかかっていたとはいえ。

チェーホフの初期のユーモレスク。

ジェイムズ・フェニモア・クーパー著『モヒカン族の最後』。ロシアでは帝政時代からジュニア文学の傑作として読まれていたことを,革命前が舞台の他の作品などで,この頃すでに知っていた。

ジュール・ヴェルヌ,コナン・ドイル(特にシャーロック・ホームズ・シリーズ)は,皆が読むから私も読んだ。

映画とセットになって憶えているのはアルカージー・ガイダール著『チムールと仲間たち』。

* * *

4年生には『物語 ソ連の歴史』という授業があり,古代から現在まで,ソ連の歴史を一年間でざっと学ぶ。そして月に一回,学校の近くの映画館にクラス全員で映画を見に行った。 『ナヒーモフ提督』(1946年作),『コトフスキー』(1942年作)といった,1930年代,40年代に製作された偉人伝映画が歴史の授業の「副読本」だった。

* * *

ソ連は慢性的な紙不足だった。4年生にもなると,学校単位での古紙回収に参加した。あのころは,金属の2本のブレードに細い板を何本も渡した橇が一家に1個必ずあり,冬場は近所の盛り土の「雪の山」から滑って遊んだものだった。古紙回収となるとその橇に,支局にいくらでもあった古新聞古雑誌の束を乗せて持ち込んだ。当然,クラス一の量で,私は誇らしかった。地区単位の数学や歴史のコンクールにも学校を代表して参加する模範的な生徒になっていた。

ソ連の学校では,「成績優秀,品行方正」な生徒は,学年末に学校長のサインがある表彰状を授与される。30数名のクラスで7ー8人はもらうので,さほどの希少価値はないが,私も4年と5年終了時にもらった。

* * *

1971年9月。5年生に進級。私は12才になっていた。

このころまでには母と2人で,国内のいくつかの都市に旅行した。訪問順に挙げると――キエフ,レニングラード,トビリシ,タリン,タシケント,ブハラ,サマルカンド。

じき帰国すると分かっていた両親は,私の日本語は大丈夫か,と心配するようになった。母はロシア語の日常的な単語はいくつか知っていた,例えば「カルトーシカ(じゃがいも)」。なのに私が会話に「カルトーシカ」というロシア語の単語を挟むと「ちゃんと日本語で言ってごらんなさい」と注意するようになった。親として当然の配慮だが,日本語で,つまり親と話をするのがますます面倒になった。

* * *

1972年8月に帰国するまでに「日本」と「日本語」が私の日常に顔を出したのは:

・1969年1月19日の東大安田講堂の陥落――私はモスクワで暮らし始めてまだ2ヶ月。あのころは,数日遅れで届く日本の新聞の4コマ漫画(サザエさん,フクちゃん)を読むのが楽しみだった。夕方の支局で,二つ折りになったままの新聞を漫画のところでめくったものだが,一面はいやでも目に入った。なので,安田講堂陥落の写真は憶えている。加えて,父が母に「日本はどうなってるんだ」あるいは「日本はどうなるんだ」と言ったのを聞いた。事件の意味は分からないし(そもそも日本の情勢など何も知らないのだが),説明もしてもらえないまま,「日本はどうかなっているらしい」とひとり漠然と不安になった。

・1970年夏(ソ連に住んで2度めの夏)のピオネール・キャンプ――「平和」という言葉を日本語で書いてくれと言われた。小学校3年で,少なくとも「和」という漢字は習ったはずだったが書けなかった。ショックだった。思い出せないこと,そして「平和という大切な言葉を日本語で書けない」自分へのダブルショック。「世界に平和を!」は当時あふれていたスローガンの中でもダントツのものだった。書けないと言えず,適当に縦棒横棒を組み合わせて「漢字らしきもの」を書いた。嘘をついた自分がまたショックだった。(平仮名ならこの時点ではまだ忘れていなかったはずなのだから,なぜ開き直って平仮名で書かなかったのか? 日本の学校では「平和/へいわ」という言葉を書く機会はなかったのか?)

・これと前後しての1970年3月から9月の大阪万博――ソ連のテレビで紹介され,「こんにちは,こんにちは,世界の国から」のテーマソングが流れた。ソ連の歌謡曲には朗々としたものが多かったが,三波春夫が歌うこの「明朗さ」は,とてつもなく異様で異質なものに聞こえた。

・1970年11月25日 三島由紀夫の割腹自殺――作家アクーニンは14歳で接したこのニュースを「衝撃だった」と記している。私の親にとっても大きな出来事だったようだが,親子の共通の話題になった,つまり,親から何らかの説明を受けた記憶はなく,級友たちに「なんなの,あれ?」と聞かれても困るだけだった。

・1972年2月 札幌オリンピック開会式――もうすぐ日本に帰る,と宣告されていた頃。私は一人でテレビを見ていた。昭和天皇が開会を宣言した。普通の人とはしゃべり方が違うというのを私は知らなかった。これに追い討ちをかけたのが選手宣誓だった。鈴木恵一という30歳のスピードスケート選手が行なった。「選手宣誓。私たちは,すべての選手の名において,オリンピック憲章に則り,スポーツの栄光と,チームの名誉のために,オリンピック競技大会に参加することを誓います」。たったこれだけの言葉。でも,晴れの舞台(「昭和の晴れの舞台」と形容すべきだろうか?)での日本人特有の切羽詰ったような,あの口調で。それは私がなじんでいた,ソ連式の晴れの場の高揚した雰囲気とはまったく違うものだった。おまけに,日本語の知識が9歳のレベルでストップしていた私は「宣誓」という大人の言葉を知らず,「センセイ」=「学校の先生」としか思わない。というわけで雰囲気は異様,発せられている言葉は意味がわからず,かつ理不尽,あまりのショックに,親には何も言わず,何も尋ねられなかったのを憶えている。

* * *

父が年に1度,1週間の休みをとるときは,家族3人でヨーロッパに出かけた。パリ,ロンドン,アムステルダム,イタリアとスペインのいくつかの都市に行った。ジブラルタル海峡を船で渡ってモロッコまで足を伸ばしたこともある。でも帰国が迫った1972年の春に,「日本に帰ったら外国になんて行かれないから」と父がパリ旅行を計画すると,私は学校を休みたくないと言い張り,ひとりモスクワに残った。

クラス全員では何度か劇場に行ったし(子供向けのマチネ公演、マールイ劇場とソ連軍劇場、現ロシア軍劇場だったと記憶している),円形の屋外プール「モスクワ」(ソ連崩壊後に救世主大聖堂が再建された)にも一度だけ行った。

* * *

「ハレ」の日として強い印象が残っているのは,祝日のデモ行進への参加と観劇だ。

クラス全員での観劇は,皆で行ったこと自体が楽しかったのであり,芝居そのものはおざなりな感じがした。ソ連軍劇場で観たのはマルシャーク作『賢い物たち』だった。

夕方劇場に行くのは大人がやること,という常識があのころはあった気がする。バレエとオペラは4年生になった頃から母と2人で観に行くようになったが、ドラマ劇団の夕方の公演に私が連れて行ってもらえるようになったのは,背丈が大人並みになった5年生になってからではないか。

当時のモスクワのドラマ劇団の中で,「国民的人気」ナンバーワンを誇っていたのは風刺劇場だろう。アンドレイ・ミローノフ、アナトーリー・パパーノフ、タチヤーナ・ペリツェルをはじめとした俳優たちが,それぞれの旬を迎えていた。(ミローノフは30歳そこそこ,パパーノフは50歳前後,ペリツェルは70歳前後と,年齢の幅は広かった)親に頼み込んで,ゴーゴリの『検察官』(パパーノフの市長,ミローノフのフレスタコフ)とレフ・スラーヴィン作 『干渉戦争』を観ることができた。私を含めた観客は,開演前から興奮状態だった気がする。ワフタンゴフ劇場もミハイル・ウリヤノフ、ユーリー・ヤコヴレフ、ワシーリー・ラノヴォイといった,有名で実力もある俳優たちを擁していて人気があった。これまた親に頼んで,『トゥランドット姫』(前述の3人に加えてユーリヤ・ボリーソワ、ニコライ・グリツェンコも出演)を含めて3演目ほど見に行った。母がタガンカ劇場の『世界を揺るがした十日間』と『ハムレット』を観ていたことは後年知った。当時の私はヴィソツキーを知らなかったと思う。

チケットは,毎日新聞社のレターヘッドにタイプ打ちした「観劇希望」のレターを劇場に提出して購入していた。

バレエとオペラはたいがいボリショイ劇場に観に行った。当時はクレムリン大会宮殿(現国立クレムリン宮殿)がボリショイの第2舞台だったので,演目によってはそちらで観た。芝居と違って,観に行く演目は母が決めたようだ。もっとも,マヤ・プリセツカヤ(私が観たのは『白鳥の湖』と『カルメン組曲』),エカテリーナ・マクシーモヴァとウラジーミル・ワシーリエフ(同『くるみ割り人形』)といったスターダンサーたちは,バレエはテレビでしばしば全幕放映されたし,祝日に中継される記念コンサート(いわゆる「名曲・名場面コンサート」)にはパドゥドゥなどが必ず含まれていたので,「誰もが知っている」存在だった。『ジゼル』『ドン・キホーテ』『ロミオとジュリエット』も含めて10作以上を観た。オペラは『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』『ファウスト』『カルメン』『トスカ』『蝶々夫人』『エフゲーニー・オネーギン』(タチヤーナ役はガリーナ・ヴィシネフスカヤ)『ホヴァンシチーナ』『イーゴリ公』と,こうして並べてみると,ずいぶん観た。保存してあるプログラムを数えたら19作品、当時のボリショイ劇場のレパートリーの8割方になる。オペラは当時,すべてロシア語上演だったので,文字通り歌劇だった。ポップスの歌詞の刺激度が低かった国に住む12歳にとって,『カルメン』は強烈だった。ヒロインは「ハバネラ」で「恋、恋、恋、恋」、「恋は自由の申し子」、「私が恋してるのはあんた。だからきっと、あんたを恋の虜にさせてみせる」とアグレッシブに連呼し,終幕,ホセは「カルメン、お前が心底好きなんだ!」と絶叫したのち,彼女を刺し殺すのだから。家には『カルメン』の名場面選と『オネーギン』全幕のレコードがあった。『オネーギン』では,ご存知,レンスキーが決闘で殺される前に「ああ、オリガ、僕は君を愛したのに」と歌い上げ,グレーミン公爵は「オネーギン、隠したところで何になろう、私はタチヤーナを狂おしいほど愛している」と主人公に朗々と告白する。だが私が繰り返し聞いたのは『カルメン名場面選』だった。

* * *

メーデーや革命記念日の赤の広場でのパレードには一般市民も参加,といった映像・写真は数多い。クツーゾフ大通りも市民の行進のルートだったので,中央分離帯を行進する人々を,5階の自宅の窓から何度か眺めた。私は一度だけ,メーデーの行進を赤の広場で見た。スタンドの記者席に父が連れて行ってくれたのだ。1969年か70年,私がまだ背も低かったときで,親についてきた子供として入れてもらえたらしい。憶えているのは,晴れ晴れとした気持と,差し込むまぶしい陽の光だけで,行進そのものの様子は思い出せない。(7)


(7) 赤の広場の観覧席へのカメラの持ち込みは禁じられていたので、スナップ写真の類いも残っていない。

1971年のメーデーには同級生のオーリャが行進に誘ってくれた。彼女の親が一緒に行くのをOKしてくれたのだ。行進は職場単位か地区単位のはずだが,憶えてないし,そもそも気に留めていなかった。クツーゾフ大通りから出発したはずだ。メーデーの時期は木々はまだ裸で肌寒く,コートを着るし,子供ならまず,帽子をかぶらされる。けっこうゆったりしたテンポで,適当におしゃべりなどをしながら歩く。私は「赤の広場を行進できる!」とわくわくしていたのだが,カリーニン大通り(現ノーヴイ・アルバート通り)もまだ歩き終わらないうちに,オーリャのお母さんが列を抜けて,沿道で人々にふるまわれる飲食物のコーナーのほうに,すたすたと行ってしまった。オーリャも私もお母さんについていって,確か,ブリヌィを食べた。急いで列に戻るのかと思ったら,お母さんは「じゃあ,帰ろうか」。赤の広場を行進できるのは,市内を行進する市民=勤労者の一部だけなのを私は知らなかった。

この1年後の1972年5月19日,ピオネール結成50周記念日の行進にクラス全員で参加した。地区単位の行進に我が校からは私のクラスが参加。親が撮ってくれたカラー写真が何枚かある。街路樹の新芽が吹き始めたばかりの晴れた日だった。私たちは白いシャツのピオネールの制服姿,手に手に淡いピンクの紙の花を数個つけた「小枝」を持ち,何人かは風船を持っている。私はクラスの先頭を歩き,私の前は軍楽隊だ。クツーゾフ大通り(学校の番地はクツーゾフ大通り22番地),カリーニン橋を渡って,カリーニン大通りとすべて中央分離帯を4キロ余り歩いて,クレムリンを目の前にしたレーニン図書館の前で解散だった。学校の玄関前で撮った写真には,ポーチのひさしに掲げられた,赤地に白い文字で書かれたスローガンが写っている (8):

「ピオネールと生徒諸君! 祖国ソ連を熱く愛せよ! 勉学に勤しみ、勤労のスキルを習得せよ! レーニンの事業、共産主義の事業を推進する、積極的な闘士にならんと努めよ!」)


(8) 当時,モスクワではカラーフィルムが現像できず,スライド仕上げも印画紙への焼付もすべて国外(多分ヘルシンキ)に出していた。白黒フィルムは,支局を兼ねた自宅――2Kフラット2つをつなげて使っていた――の2つ目の風呂場を暗室にしていたので,家で現像した。仕事で使うフィルムはそのまま東京に送り,私用のものは市内の写真屋に焼付けに出していたが,仕上げは概して雑だった。白い枠がまっすぐでないのはあたりまえ,薬剤をきちんと洗い流さないのか,シミもけっこうあった。いまではそれが「いい味」になっているのだが。

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5年生だった1972年の対独戦勝記念日(5月9日)には名誉衛兵を務めた。広大な戦勝公園をつくるために1990年前後に削り取られてしまったポクロンナヤ・ゴラー(「叩頭の丘」)は,当時はまだ実際に丘で,「ここに戦勝記念の碑 建立すべし」と刻まれた石碑はあるものの,自然公園の趣だった。学校の最寄りの停留所から乗ればバスで10分くらいで着いた。ピオネールの制服姿で記念碑の左右にそれぞれ2人で立った。衛兵だから直立不動,誰かが記念碑に近づくと敬礼する (9)。顕花に来る人はほとんどいなかった。しばらくして,3人の「おじさん」=中年の男たちが現れた。私たちは敬礼した。男たちはもつれた足取りでひとつの塊になって近づいてきた。嗚咽する男の両脇を,あとの2人が抱えるようにしている。3人とも,洗い立てとはいえないシャツにくたびれた背広で,子供の目にも酒が入っているのがわかった。記念碑のまん前,私たちから1,2歩のところで立ち止まり,体を震わせて泣く男にあとの2人が何か言うのだが,意味をなしていない。私たち4人は敬礼をしたまま。私は首も動かせず,視線だけを彼らに向けていた。映画の中などではない,生身の大人の男が人前で泣きじゃくるのを私ははじめて見た,ソ連が全ヨーロッパを解放した(そのときの私は皆と同じにそう信じて疑わなかった)戦勝記念日に。彼らは40代後半だったと思う。終戦時に二十歳前後だったことになる。


(9) ピオネールの敬礼は、軍人や警官などの「大人の敬礼」とは少しちがう。挙げた右手の親指を額の真ん中まで持ってくるので、肘は肩よりも高く上がる。

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1972年の夏,5年生を終了して13歳になる直前の私が母と歩いていると,「あなたたち,ベトナムから来たのね? この国で勉強するためなのね?」と声を掛けられることがあった。相手は決まって老婦人で,私と母に崇拝と熱愛の眼差しを向けた。英雄的に戦うベトナム人民の代表ではなくて,資本主義国の人間であると打ち明けるのが申し訳なくて,私はただうなずくだけだった。

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1972年8月に母と一緒に帰国。日本に着いたのが13歳の誕生日だった。

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日本では千葉県の松戸市で暮らすことになった。

年齢からいうと中学1年生だが,モスクワでは5年生を終了したばかりだし,日本語も怪しい。母に連れられて市の教育委員会に相談に行った。中学1年の数学と英語の教科書を見せられた。私はモスクワの5年生の授業で1年間すでに英語を学習済み。数学はソ連の学校の5年生で習ったことは,日本の中学1年生の一学期終了の時点より進んでいた。そこで年齢どおり中学1年生に編入となった。

帰国して10日ほどで2学期が始まり,セーラー服を着た公立中学1年生になった。生徒全員が苗字を書いた名札を胸につけていたのは,私の目には異様に映った。

私の日本語は,小学校3年の途中まで習った漢字はすべて忘れていて,おまけに,ひらがなさえ「あいうえおかきくけこさしす」以降は書くことができず,「ね」と「ぬ」の区別がつかない状態だった。

地理の授業では日本の都道府県を勉強していた。「福」という漢字で始まる県が三つ,それも互いに離れたところにある――福岡,福井,福島――というのでパニックになりそうだった。おまけに同級生に「身振りが大げさだ」と言われた。

だが半年経つと,日本語の力は完全に回復したといえるまでになった。顔の表情や身振りも日本人らしくなった,つまり目立たなくなったようだ。

高校は地元の県立高校に進んだ。この頃,「生きたロシア語」に接する機会はほとんどなかった。NHKのロシア語講座は1974年に開設されたそうだが,聞いた記憶はなく,モスクワの友人たちやアーダ先生との文通は手紙が互いに届かなくなり,自然消滅した。

1978年に東京外国語大学ロシヤ語学科に入学。2年後に開催予定のモスクワ・オリンピックへの期待感が漂っていたが,1979年の暮れにソ連がアフガニスタンに軍事介入した。日本を含めた西側諸国はモスクワ・オリンピックをボイコットした。ソルジェニーツィンの『収容所群島』を読み,エフゲーニヤ・ギンズブルグの『明るい夜 暗い昼』を読んだ。『時事クロニクル』やモスクワ・ヘルシンキ・グループの存在も知った。1981年12月,ポーランドに戒厳令が敷かれた。1982年の春,東京外国語大学を卒業してソ連専門の商社に就職した。1983年9月,大韓航空機がソ連の領空を侵犯してソ連軍の戦闘機に撃墜され,日本人を含む乗客乗員269名全員が死亡した。

私が再びモスクワを訪れたのは1984年2月。パイプライン用のパイプをソ連に納入している鉄鋼メーカーの部長のアテンド出張だった。このあと2回,同じようなアテンド出張をモスクワ,レニングラードとキエフにしたのち,商社を退職した。

(よしおか ゆき)